

足利義満の愛した南宋山水画の一級品
国宝 秋景冬景山水図 伝徽宗筆
中国・南宋時代 12世紀
京都・金地院蔵[前期展示]

建盞天目
中国・南宋時代 12~13世紀
京都国立博物館蔵[通期展示]
「宋元仏画」は、日本の仏教や美術の発展に深く関わるなど、文化的な影響力が極めて大きなものでした。そのため、海外の作品にもかかわらず多くが国宝や重要文化財に指定されています。出展総数150件以上、その約半数が国指定文化財です*。*2025年5月時点。今後、増減する可能性があります。
宋・元時代の絵画作品のなかでも、宗教画である仏画は、鑑賞や収集の対象にならなかったため、王朝の交代などによって中国ではほとんどが失われてしまいました。一方、日本には古くから伝わる宋元仏画が数多く残されており、世界に現存する宋元仏画のうち、大半は日本に残されていると推定されます。
絵画表現の水準の高さは宋元仏画の大きな魅力です。宮廷がリードして芸術文化が円熟期を迎えた宋代仏画の壮麗さ、社会の大転換のなか少しずつ変容を遂げた元代仏画の多様性など、見どころの多いものばかりです。日本の絵師が手本として仰いできた、中国絵画の神髄に触れることができます。
第1章
「宋元」とは、本来、宋と元という中国のふたつの王朝を意味しますが、日本では中世以来の特別な価値観をあらわす言葉でもあります。平安後期から鎌倉時代には、直接の交渉によって宋や元からたくさんの舶載品がもたらされますが、両朝が滅びた後の室町時代になっても、「唐物」が賞玩の対象として珍重されるなかで、「宋元」のものはとりわけ尊ばれました。その最たるものが、足利将軍家の唐物コレクション「東山御物」であり、格別な評価を受けながら今日まで受け継がれています。第一章では日本が高く価値づけ、憧れつづけてきた宋元文化の一端をご紹介し、宋元仏画への導入とします。
足利義満の愛した南宋山水画の一級品
中国・南宋時代 12世紀
京都・金地院蔵[前期展示]
中国・南宋時代 12~13世紀
京都国立博物館蔵[通期展示]
第2章
宋元仏画はなぜ日本に多く残されているのでしょうか。古くから仏教を信奉してきた日本は、仏教先進国であった中国に規範や師法を求め、幾度も海を越えて大陸を目指しました。入宋や入元を果たした日本僧たちは、聖地や有力な寺院をたずね、当地の僧侶に教えをうけながら最新の仏教を学びます。その成果に加えて、仏画をはじめ、仏像や経典、清規(生活規則)や寺院で用いられる資具(日用品)など、宋元両国から数多くの仏教文物を日本にもたらし、大切に伝えてきました。人の思いと行動が結んだ仏教文化の交流を、師資相承の証として持ち帰られた中国の祖師たちの肖像(頂相)とともに説き起こします。
南宋皇帝も認めた仏教界の泰斗
中国・南宋時代 嘉熙2年(1238)
京都・東福寺蔵[後期展示]
第3章
唐が滅んだ後、960年にふたたび中国を統一したのが宋という国です。宋は建国から靖康の変(1127年)までを北宋、都を江南に移してからを南宋と呼びます。科挙を本格的に運用した宋では、士大夫層が社会をリードして知性的な文化が醸成され、宮廷を中心に絵画表現も高度な水準に達し、その反映を仏画にもみることができます。また、南宋の宮廷が置かれた臨安(浙江省杭州市)の周辺は仏教の伝統が色濃い地域で、天台山、阿育王山、普陀山といった聖地があり、明州(寧波市)を中心に市井で多くの仏画が制作されていました。日本に残る仏画がいかに生まれてきたのか、宋代の文脈に照らしてみていきます。
【部分】
比類なき宋代仏画の最高傑作
中国・北宋時代 11~12世紀
京都・仁和寺蔵[前期展示]
第4章
日本の仏教の大きな転機のひとつは、鎌倉時代に南宋から本格的な禅宗が伝えられたことでしょう。これと同時に水墨を主体とした絵画も広まりました。南宋時代の末期から元時代の初頭に活躍した禅僧の牧谿は、水墨画の名手であり、日本で最も愛された中国画家と言って差しつかえありません。臨済宗の傑僧である無準師範(1177~1249)の弟子であったことも、日本に受け入れられた大きな要因でした。牧谿の絵画は、簡潔でやや粗放な筆致と淡墨の効果を最大限に発揮した、当時の中国の禅林水墨をよく伝えるものでした。代表作「観音猿鶴図」をはじめとした牧谿の作例を基点としながら、宋元の禅宗絵画の豊かな様相をたどります。
猿鶴の声がみちびく、深淵なる禅の悟り
中国・南宋時代 13世紀
京都・大徳寺蔵 [後期展示]
第5章
918年、朝鮮半島に高麗(918~1392)が建国されると、仏教をあつく信奉する国家へと発展します。高麗の長い歴史は、中国に宋と元が興亡した時期と重なり、両国との交流は高麗における仏画の制作とも無関係ではありませんでした。高麗で制作された仏画には、一部に北宋時代の絵画伝統の継承や元時代の特色の共有などをみることができます。中世以降、日本に舶載された高麗仏画は、次第に「唐絵」として中国画と混同されてきましたが、近年は研究が進み、その特色が明らかにされてきています。ここでは高麗仏画をあつめ、宋元時代の絵画との関連性をみるとともに、高度に洗練された独自の魅力に迫ります。
修理後初公開
朝鮮半島・高麗時代 忠烈王20年(1294)
京都・妙満寺蔵[前期展示]
朝鮮半島・高麗時代 13~14世紀
奈良・大和文華館蔵[後期展示]
第6章
中国において、仏教と同様に長い歴史をもち、広く信仰を集めてきたのが道教です。宋元時代に制作された仏画や道教画には、しばしば双方の特色があらわれた習合的な作例を確認することができます。あまねく諸尊を勧請する水陸画や地獄信仰と結びついた十王図などの道教的要素を取り込んだ仏画、また禅宗祖師の画像と親和性の高い仙人画など、さまざまなかたちで表れています。さらに、中国での布教のために仏教図像を借りたマニ教の聖像は、知らない人には仏画にしか見えず、これが幸いして現在に伝えられました。仏教の周縁に広がる他宗教との図像的な交渉を追いながら、宋元仏画の多様な側面を紐解きます。
古代オリエントで生まれた古代宗教、姿を変えて中国に息づく
中国・元時代 14世紀
奈良・大和文華館蔵[後期展示]
日本のお寺になぜ仙人?
中国・元時代 13~14世紀
京都・百萬遍知恩寺蔵[前期展示]
第7章
「宋元仏画」は、礼拝対象である本尊画像として、儀礼空間の荘厳として、あるいは禅の精神性を伝える掛物としてさまざまに機能しました。これらの仏画は、規範的な図像として日本で多くの複製(コピー)が作られます。さらに、日本の画家にとって貴重な手本であった宋元仏画のなかでも、道釈人物画や禅林水墨は、礼拝画像に比べて筆墨やモチーフの表現に自由度が高く、新たな創作の糧となりました。梁楷や牧谿、顔輝など一部の画家の表現は、一種のスタイル(筆様)に整理されて広く模倣されるまでになります。宋元仏画がいかに日本美術の成熟の拠りどころとなってきたのかを見渡し、本展の締めくくりとします。
巨匠・等伯、南宋の画家・牧谿に憧れて
桃山時代 16世紀
京都・龍泉庵蔵[後期展示]
牧谿の本質をとらえ、宗達の水墨画ここに極む
江戸時代 17世紀
京都国立博物館蔵[10月21日~11月2日展示]
奇想の画家の手にかかれば、ここまで斬新
江戸時代 明和元年(1764)
文化庁蔵[前期展示]
トピック展示
中国から請来されてきたものは、仏画だけではありません。絵画に比べて移動が難しい仏像も海をこえて中国から持ち込まれました。日本において中国に倣った仏像を制作しようとするとき、必ずしも手本は仏像だけではなく、図像や絵画が用いられました。
鎌倉時代には帰国した入宋僧により中国風の伽藍が造営されました。伽藍には宋から請来された仏像が安置され、またそれらの影響を受けて、異国風の特徴をもつ癖の強い仏像が造られました。宋代に流行したいわゆる逆手阿弥陀や、「生身性(生きた身体としての性質)」を表現した造像、像内に舎利や五臓を納入する例など、仏像における中国受容について紹介します。
仏の言葉そのものである経典は、仏教文物のなかでもとくに重視されました。経典は文字資料ですが、その表紙裏には見返し絵として仏や菩薩などの姿や経典の一場面が描かれました。また、手で書き写した写経だけでなく、宋時代に発達・普及した木版印刷による版経にも、版画の扉絵や挿図がみられます。これらの経典に付された絵画である経絵も、重要な仏教絵画の作例であり、経典の流布とともに広範囲にひろがりました。ここでは宋元と高麗の経絵を比較しながら、東アジア的展開と仏画との関連性を考えます。
朝鮮半島・高麗時代 統和24年(1006)
京都国立博物館蔵[前期展示]